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遙かなるヌシ
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<第 1 話> 餌 飼 い の ジ イ サ
その老人は、何をするでも無く川のほとりに立っていた。ただぼんやりと、川の流れを眺めているかのように思えた。
昨日も同じ所で見かけた。一昨日も同じ所に立っていたように思えた。
ただの散歩だと、竜也は気にも掛けなかった。
それよりも、此処へ来てもう3日目にもなるのに、野鯉のアタリが1回も無いのが問題であった。
竜也はこのポイントに自信を持っていた。
ここは、坂東太郎、筑後次郎、四国三郎と纏めて並び称される、九州の筑後川である。野鯉釣りでも昔から全国に鳴り響いている。
竜也は、此処で竿を出すまでに、筑後川の両岸を下流から中流迄、約半日掛けて下見をした。その中には、野鯉の良いポイントと思えるところは、幾つも見られた。しかし、その中で此処が最もよいポイントだと考えて、竿を出したのである。
この辺りは筑後川でも中流に位置し、久留米市の郊外に当たる。九州随一の大きさを誇る筑後川は、暴れん坊としても有名で、前記のような仇名を持つわけである。当然、その流れは右へ左へと所構わず蛇行して、その度に底をえぐって淵を為し、時には堤を削って溢れだす。
川は恵みの母であるが、同時に恐ろしい鬼でもあったのである。八股の大蛇とか九頭竜という言葉が残っているが、これは恐らく洪水で暴れ捲っている川を見て付けたのではないかと思われる。
竜也の選んだポイントは、そうした淵の名残りがそのまま見られ、大きく蛇行して流れが岸にぶつかり、沖にはその流れを弱めるためにその昔に打ち込まれたと思われる杭の列が取り残されている。しかも、この淵の上手には、産卵に適した草の生い茂った支流迄もが流れ込んでいる。
誰が見ても、絶好の野鯉のポイントである。
竜也は、その支流の落ち口に竿を並べた。季節は、春4月。桜も散って、まだ間もない。
下流で、ボチャンという水音がして、竜也はそちらを振り向いた。
どうやら、先程の老人がゴミでも投げ込んだようだ。左手に、カラになったポリ袋が握られている。
そろそろ、日も傾いてきた。竜也が夕方最後のエサ交換をして戻ってくると、先程の老人が立っていた。
『大きいのは、釣れましたかな。見た所、何日も前から粘っておいでのようだが、お若いのに辛抱強いですな。』
と、日に焼けた深い皺を顔一杯にして、竜也に話し掛けてきた。
『いやあ、駄目です。3日もやっているのに、アタリもありません。』竜也は恥ずかしそうに、少し俯いて答えた。
『やっぱり、そうですかな。ここは、御存じ無いかも知れんが、釣人の空く事が無い位、入れ替わり立ち替わり竿が並ぶところじゃから、魚も賢くなって滅多に食わんじゃろ。ところで、どちらから来られたかな。』
老人は、竜也のワゴン車をいぶかしげに見ながら尋ねた。
『名古屋から来ました。丁度今、春休みなんですよ。』
『ホッホッホ、お若い人はいいのう。まあ、頑張りなさい。ワシも明日は、頑張ってみようかの。』
老人はそう言い残すと、ひょこひょこと杖を突きながら歩き去った。