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遙かなるヌシ
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『50mほど下流に、お爺様の知り合いの漁師さんの船が繋いであるの。何とか、そこまで行けないかしら?』
『舟?そうか!鮎美さん、有難う。じゃあ、そこまで水辺を行くから、服を脱ぐまで、少しこの竿を持っていてくれないかい?』
 竜也はそう言って、鮎美に竿を渡すと服を脱ぎ始めた。
『キャア…、何て凄い引きなの!』
 余りの手応えに鮎美が悲鳴を上げた。
鮎美も、子供のときから木水に付いて竿を握っているから、実は竜也よりずっと野鯉釣りの経験は豊富である。ただ、力が劣っているだけである。
 パンツ1枚になった竜也が、鮎美から竿を受け取った時には、既にラインは全て引き出され、竿は伸されて一直線になりかけていた。
 竜也は、慌てて岸を駆け下りて川に入ると、思った以上に水深がある。岸のすぐ際で肩まであり、柳の枝が水中に張り出しているからその先はとても背の立つ深さではない。竿は獲物の力で引き倒され、今にも水中に飲み込まれそうである。
 竜也は、意を決すると竿を片手に泳ぎだした。しかし、竿を立てようとしても獲物の引く力の方が強くて、溺れないようにするのが精一杯である。獲物の付いた竿を片手に、左手と両足を使って泳ぐのは、中々至難の業である。何度も水を飲みながらほうほうのていで50mを泳ぎ下ると、木造の和船が見えてきた。
『竜也さん、しっかり。もう少しよ。頑張って!』
 船の上には、既に鮎美が竹棹を手にして大きな声で呼んでいる。
何とか無事に船まで辿り着いてホッとしたのも束の間、獲物は流れに乗ってどうしょうもないパワーで、下流へ下っていく。
竜也が思案する間もなく、鮎美が慣れた手付きで竹棹を岸に当てて押し出すと、船は滑る様に沖へ漕ぎだした。
『鮎美さん、凄いじゃ無いですか!』
竜也が鮎美の腕前に驚いて声を掛けると、
『お転婆で驚いたでしょう。』と鮎美はにっこり笑顔で答える。
 竜也はそれまで夢中で気付かなかったが、今日の鮎美の姿はいつもと違って紺のタンクトップにピンクのショートパンツという如何にも活動的な装いであった。船尾に腰を掛けて長い竹棹をオールのように軽やかに漕ぐ様は何とも眩しく頼もしく思えた。
 船に乗ればもうこちらのもの。頼もしい助っ人もついているし、いくら奴が走ろうが下ろうが、一緒についていけばそのうち疲れるだろうと、竜也は船首に腰を下ろすと、ようやくリ−ルの糸を巻き始めた。
獲物は既に梅雨で増水した本流に逃げ込み、筑後川の流れは矢のように速く、棹一本で小船を操るのはなかなか難しく、鮎美の奮闘にもかかわらずなかなか魚との距離は縮まらないでいた。
 それでも、前に後ろにと位置を変えながら流れを下るうちに、何とか20〜30mの距離まで寄せることができ、暫くそのままの距離を保って戦うことにした。
 しかし、何とタフな魚であろう。2時間を越える引き合いをしているというのに、その重々しい引きは最初と何ら変わる事なく、姿さえ一度も現さないのである。
 それどころか、3km程下って大きなカーブまでくると、いきなり反転して上流へ走り始めたのである。
流れに乗って加速のついた船は、なかなか簡単には止めることができない。やむなくドラッグを緩めると、ラインはどんどん引き出され、やっと船の体勢を立て直して追撃に入ろうとした時には既に残り少なく、奴の動きもピクリとも感じなくなってしまった。
《しまった!掛かりに入られたか!》
 流れに逆らい道糸をたどっていくと、斜め上流の南岸の柳の根元にラインは消えていた。
『あれっ、ここは…』
 竜也が驚いたように叫んだ。
『お爺様がいつも釣りをしていた際だわ…』
 そこは、木水と竜也が始めて出会ったポイントの直ぐ下流であった。
そして、行方不明になった木水が発見された場所でもあった。
《奴はまだついているだろうか。せっかくの今までの粘りも水の泡だったのか。》
 諦めにも似た不安と祈りの入り交ざった手で、竜也がラインに絡んだ柳の枝を一本一本ふりほどいていくと、獲物はいきなり沖へ走りだした。
『良かった。まだ糸は切られていなかったぞ。』
『本当に、もうだめかと思ったわ。』
 竜也と鮎美は、二人で喜びの言葉を交わしながら、再び魚の後をついて流れていったのである。
 先程の失敗に懲りて、その後はぐっと近くまで船を寄せて引き合うことにしたが、3m程の水深に合わせた誘導ウキが水面に顔を出すところまでくると、あとはどんなに竿を絞ってもそれ以上浮いてこようとしない。
 そのまま、下流の橋をくぐり、あっちの岸、こっちの岸と流れ下るうちに、さすがの奴も最初のころほどの勢いはなくなってきたように思われた。
 そこで、南岸の流れのゆるい岸辺に近づいたのを機に、船を止めて引き合うことにする。
そのポイントは1.5mと浅いため、何とか獲物の姿が見えぬものかと竜也は一生懸命に浮かそうとしたが、獲物は全くびくともせず姿を現さない。まるで、底に張り付いたように重い。
暫くそこで引き合いを続けていたが、朝から長時間引き合いを続け、すでに日は高く真上に上がり昼近くになっていた。
『竜也さん、お腹空いたでしょう。用意してきたサンドイッチは如何?』
 船を止めてホッとした鮎美は、竜也に声を掛けると、バスケットから朝食に用意してきたジュースとサンドイッチを取り出した。
『有難う、鮎美さん。でも、引きが強くて手が離せないんだ』
 竜也は、水面に顔を向けたま言葉を返すのが精一杯である。
『じゃあ、私が食べさせてあげるわ。竜也さん、ハイッ…』
 鮎美はサンドイッチを小さくちぎると、それを竜也の口に持っていき、次に、ストローの付いたジュースを咥えさせ、楽しそうに微笑んだ。
『ああ、美味い!』
 竜也は一口飲み込んでそう呟くと、一気にジュースを飲み干した。
涼しい川の上とはいえ、7月の梅雨の晴れ間である。朝から何も口に入れていない竜也にとっては、まさに最高の食事であった。
 食事を取って落ち着くと、今度は尿意を催してきた。
『鮎美さん、トイレに行きたいんだけど、暫く代わって貰えるかい。』
 そう言って竜也は竿を鮎美に渡し、船を下りると草むらに消えた。
用を足して戻った竜也が、 滅多にない超大物の感触を鮎美にも味わってもらおうと、そのまま暫く見ていると、鮎美は初めのうちはその場で引き合いを続けていたが、そのうちにじわりじわりと糸を引き出され始めた。30m程引き出されたため、舟を出す用意をしようかと思った途端である。
『あっ…』という短い叫び声とともにラインが弛んだ。
 ハリス切れである。長時間にわたる大物との戦いでハリスの結び目が弱っていたのである。ハリスは2本針の結び目で両方とも切れていた。
 時計を見ると、正午を少し回った所で、実に6時間あまりの引き合いであった。
『ごめんなさい。私…私…』
 鮎美は、ショックで言葉を続けることができなかった。
『いいんだよ。鮎美さんは何処も悪くないよ。あまりにも長時間だったので、仕掛けが弱っていたんだよ。』
 獲物が消え去った方向を呆然と見つめている鮎美に、竜也は優しく声を掛けると後ろからそっと抱きしめた。

続く